2・4・6・8・10・12のアラビア数字とクサビ型インデックスを組み合わせた端正なダイアルとシンプルなステンレススチール製ケースがベストなマッチングを見せるジャガー・ルクルトの名機『メモボックス」。しかし、もともとの姿はちょっと派手な金張りケースを装備してアメリカ向けに出荷された『LeCoultrer』ブランドのモデルだった
ある“欠陥”のおかげで格安入手した名機『メモボックス』
毎年12月の15日と16日、そして翌年の1月の15日と16日に開催される東京・世田谷のボロ市。これに通うのが高校時代からの私の年中行事のひとつである。(ただし、最近は掘り出し物もあまり見つからないので滅多に行かなくなってしまったが)
そんなボロ市通いを続けていたある年(多分、30歳になってすぐだったと思うから30年ぐらい前)、西荻窪にあるアンティーク屋さんが出店しているのに遭遇した。
「こんにちは。あっ、このルクルトの『メモボックス』、いいじゃないですか!」「でもそれ、ポケットに入れてきたんだけど止まっちゃったんだよね」「ほんとだ、止まってますね」「だから安くするよ」「じゃあ買います」と、トントン拍子に商談が進み、金張りケースの『LeCoultrer/Memovox』は私のものとなった。
この『LeCoultrer(ルクルト)』とは、製造はもちろんスイスの名門マニュファクチュール、ジャガー・ルクルトだが、アメリカ向けに『LeCoultrer』のブランドを用い、スイス国内や他の国向けのモデルより派手なスタイルを特徴とするモデル。
それにしても店を出る時には元気に動いていた『メモボックス』が、なんで突然、停止したのか? 不思議に思いつつ家に帰って裏蓋を開けようとしたところ、裏蓋のネジが腐食し、ピッタリと閉まっていないのがわかった。そのガタガタの裏蓋をはずしてムーブメントをルーペで見ると、テンプのスキマに細い繊維クズが1本からんでいるのを発見。この繊維クズをピンセットでつまんで取り除くと、『メモボックス』は再び元気よく作動を始めたじゃないか!
というわけで、結局、店主のポケットの中に入れられた『メモボックス』は、完全に閉まらない裏蓋のスキマから繊維クズが侵入し、それがテンプにからんで悪さをしていたのである。おかげで格安で入手できたのだからラッキーではあったのだが。
時計コレクターの夢を実現したスイス本社での修復
しかし、このガタガタのケースのままでは恐ろしくて使えないし、オーバーホールもしなきゃならない。さて、どうしよう、と思案していたところ、運良く1997年の冬にスイス・ジュウ渓谷のジャガー・ルクルト本社取材が実現。その際に『メモボックス』を持参し修復をお願いすることにした。
ところが実際にスイス本社で修理を頼むと、『LeCoultrer』製品はアメリカ向けのため、本社には交換部品のストックがないという。どうすれば良いのか?
すると担当者がこう言った。「ひとつ方法があります。それはムーブメントをオーバーホールし、当社にストックされているケースや文字盤、針に交換するのです」
この金張りケースの『LeCoultrer』は格段に洒落ていて気に入っていたもの。ところが外装を全部交換してしまうと雰囲気はまるで変わってしまう。とはいえ、あのケースでは使えない。そこでイメージがガラリと変わるのを承知で修復をお願いすることにした。
「では、このファイルを見てご覧ください。ケースはどれにしますか? 文字盤は? 針は?」
なんと彼は分厚いフォルダにファイリングされた1950年代の『メモボックス』のストック部品から、好みのケースと文字盤と針を選べという。こんな機会は滅多にない。私はほとんど夢心地でシンプルなステンレススチールのケースと、それにマッチするアラビア数字とクサビ型インデックスの文字盤、シャープな夜光入りの針を選んだ。
そして、数か月後の春、バーゼル・フェアの取材でジャガー・ルクルトのブースを訪れた私は、すべてストックの外装部品でレストアされた、まるで新品の『メモボックス』を受け取ったのである。
修復が完了した時点ではジャガー・ルクルト純正の黒いカーフ・ストラップが付属していたが、あまりにも地味なので派手なパイソンに交換した。ただ、このラグ幅は17mmなので、フィットするストラップを探すのが大変だ。なお、注目していただきたいのはインデックスの脇の小さなドット、アラーム時刻セット用の三角、そして針のセンターに夜光塗料が塗られていること。すでに経年劣化で光らないが、「光るべきところはすべて光らせる」という時計製造の基本が踏襲されている
今も進化を続けるアラーム・ウォッチの旗手
ところでジャガー・ルクルトの名機『メモボックス』とは、どんな時計なのか? 少し説明したいと思う。
すでに紹介したが、モデル名の『メモボックス』は『Memovox』と表記する。この「Memo」とは「覚え書き」のこと。そして「Vox」はラテン語で「声」。つまり『メモボックス』とは、「声の覚え書き」という意味であり、アラーム機能を持つ腕時計にピッタリのネーミングである。
ジャガー・ルクルトが、このモデルを発売したのは1950年代はじめだが、すでに市場にはヴァルカン(VULCAIN)の『クリケット(Cricket)』が存在しており、その後の1960年代には日本のシチズンやセイコーからもアラーム機能を持つモデルが次々に登場。世界的にアラーム・ウォッチの流行が巻き起こる。
これらの製品を比較すると、実は『メモボックス』の音量は小さいほうだ。しかし、逆にこれが『メモボックス』の個性ではないだろうか。つまり、音は小さくても時計を腕に嵌めていれば振動が腕に伝わり、十分にアラームの役目は果たす。もちろん、小さ目とはいえ結構な音量があり、試しに腕に嵌めて鳴らしたところ、「これから鳴るぞ」とわかっていても、ちょっとギクッとするぐらいの音が出るのだ。
この個性的な名機『メモボックス』は、発売当初から人気を獲得し、『LeCoultrer』ブランドのアメリカ向けモデルをはじめ、自動巻きモデルや日付表示付きモデルなども登場。1968年にはアラーム機能を備えたダイビング・ウォッチ『ポラリス』というモデルまで発売され、ジャガー・ルクルトはアラーム・ウォッチの一大コレクションを形成したのである。
さらに『ポラリス』は2008年に現代の技術でより高機能に進化して復活を遂げ、今ではジャガー・ルクルトにおける人気コレクションに昇格。シンプルなものから永久カレンダーとアラームを搭載する複雑モデルまでを展開し、アラーム腕時計の世界をさらに拡大し続けている。
アラーム機能付きの腕時計なので、リューズはアラーム時刻セット用と通常の時刻修正用のふたつを装備する。2時位置のリューズはアラーム用ゼンマイの巻き上げとアラーム時刻セット用、4時位置のリューズが時刻用ゼンマイの巻き上げと時分針修正用となっている
ところで、私の『メモボックス』には後日談がある。それは修復完了の翌年、再び取材でジャガー・ルクルト本社を訪問した際、当時のジャガー・ルクルト社長、副社長とジュウ湖畔のレストランで昼食をとることになった時だった。
向かいに座った副社長が腕の『メモボックス』に気づき、「ちょっと見せてくれ」と言う。そこで時計を渡すと、彼は「こんなに美しい『メモボックス』は当社のミュージアムにもない。できたら新しいモデルと交換してくれないか?」と言うじゃないか。
いやもう驚いたね。しかし、“これはすべて御社のストック部品で修復したものです”という英語の文章がスラスラと出てこない。そこで「お言葉はありがたいのですが、この『メモボックス』は私がもっとも気に入っているモデルなので交換することはできません」と説明し、現行品との交換は丁重にお断りした。それをやったらほとんど詐欺。いや、でも、ちょっともったいなかったかな?
名畑政治 1959年、東京生まれ。'80年代半ばからフリーライターとして活動を開始。'90年代に入り、時計、カメラ、ファッションなどのジャンルで男性誌等で取材・執筆。'94年から毎年、スイス時計フェア取材を継続。現在は時計専門ウェブマガジン「Gressive」編集長。